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2006年6月28日 (水)

ノーモアブサイク

こういうところで、人目を意識して書くことのテンション、ってだいぶさがってると思う、20代前半のインターネットを始めた頃よりも。当時は、曲がりなりにも、ネットという、全世界に繋がってる(と勝手に、こっちが盛り上がっている)場に、文章を晒す、ということに、安い言葉で言えばロマンがあった。ほとんど真剣に読まれてなかったと思うけど、そういう場で、考えをオモテに出すことで、世界と対峙してるような気持ちが勝手に盛り上がってた、と。なんてね。

というのは、オオゲサだけど、結構文章って、書いてる過程で、こりゃ、やっぱ独りよがりだな、とか、冷静になったり、文章が先導して、何か、新しい、という感じがするものが生まれたりね。でも、今はとてもそうじゃない。学生時代の時みたいに、暇じゃないし、というか、暇は作ればあるけど、なんだろう、踏み込んじゃったら、デッドボールになってしまうかもしれない、関わらざるを得ない、アレコレ、を考えると、踏み込めないなあ、というのがあって、なんでもかんでも、っていうわけにはいかなくなってて、そもそも打席自体を選んじゃう、みたいなとこがあると思う。今や、なんでも経験、というガッツはない、という状態なのよね。

なんかねえ、オオゲサに言えば、文章を紡ぐ、みたいなことそのものが面白かったんだよね。そして、この発想は、新しい、とか、勝手に思い込める無邪気さ、とかもあったし。だけど、今や、新しいなんて、ほとんどないのよ、と、だいたい、わかっちゃったよ、と、少なくともオレにそういうとこはないよ、と。養老さんの本を読んだりして、これが、優秀、ってことなんだなあ、とか思ったりした。あと最近のブログの隆盛を見てるとやっぱり、俺がなんか、言うことの意味って、全くないな、と。砂漠に、スポイトで水をまくようなもんだね。無駄な抵抗というか、意味がない、というか。

仕事の忙しさ、とか、もちろん、あると思うけど、前のホームページの日記の量が少なくなった時期と、前の彼女と付き合ってた時期と、養老さんの本を読み出した時期、って、綺麗に順番になってるかもしれないな。脳に遊びのスペースが、何に使われてたか、って、こととイコールと思う。そう考えると、今は、音楽がそれになりかけてるけど、何か、イマイチ突っ込みきれてないんだと思う。まあまあ、すごーくいい加減だけどね。とっても、ツゴー良く、解釈してるけどね。それで、すごく嫌な感じがしてるんだと思う、空いてるスペースに何かを突っ込めてないことが。でも、実は、そこに何かを突っ込もうともしてないとも思う。ナニゴトにも、集中できない。

ちょっと前までは、悶々としたとき、とか、暇なとき、って、たいがい、本を読めば良かったんだけど、内田さんの本も、社会人のフトコロで、いっきに1万円以上も買って、ある、と思ったら、全然読めない。読めば読んだですごく面白いんだけど。食ったそばから、腹減っちゃうみたいな、食欲がなにごとにも今やないんだよね。これは、身体の変化よ。そんで、身体が変化しているけど、今の日本の社会が求めるポジションってものに、自分の今の年齢で、いるのだろうか、と。漠然とした不安感ってヤツよ。ほんとに辞めて、新潟に帰ってた方が良かったかもしれない。

違う、違うYO! 井の中の蛙だ、っちゅうことがわかった、ということだと思うよ。こういうところで、書けなくなってるのは。あとねえ、俺自身のことは、やっぱり晒せない、ってのもある。いや、晒しても、いいけど、それが面白いか、って冷静になってんのよね。前なんかむしろ、必要以上に自分をオトしめて、それが面白ければ、イイ、って感じだったけど、今やねえ。前は、無邪気に面白がれた、ってのがあった、と思うけど、なんか面白がれない。

それに、最近は、自分で、こういうところで書いてることを読み返してみて、書いてることは、ほんとに、養老さんとか、最近では、内田さんの受け売りでしかなくてね、やんなっちゃう。だから、俺がここでなんか言う、意味ってほとんどない。そういう人のものを読めばイイ。かろうじて、救われてるんじゃないか、っていうのは、単なる鸚鵡返しからは、逃れてるんじゃないか、ってことくらいかなあ。いちおう、なんか、俺の身体を通ってます、みたいなとこはちょっとだけあるかもしれない。でも、一方で、なんか、惰性で書いちゃう、ってのもあるかもしれない。なんか、どーせ日記を書いてんだから、さらそー、と。だから、ある意味、これにはまりかけてるのかもしれないな。

とか言っておいて、今、ひとつだけ、思いついた。これは、言葉にしてるのあんまり見たことがない、ってものが。それと、この土日の思いが絡みあう、ってことを発見した。人間、ってやっぱり動物です、と。顔であったり、声であったり、体臭であったり、それを含めてなんです、と。ブサイクは、ブサイクとして、扱われ、本人が知らないうちに、ブサイクの世界に住むことになり、自分がブサイクとして受けた、扱い、を、外界に返すんだよ、と。強調したいのは、本人は、それがどういうもんだ、って全然意識してない、ってことだ。自分にとっては当たり前のことだとしか思えない。というか、まずは、自分がどうだ、って検証するのもほとんどできないと思う。

本人って気づかないんだよね、自分を意外に客観的に見れないもんだと思うばい。いや、初めから、きっちり見れたら、たいへんだと思う。たとえば、まちゃみんのような、どんなブサイクでも、本人は、ブサイクだなんて、全然思ってないと思う。まだ、もっと自分より、ブサイクがいる、とかさ、ほんとに、ツゴーよく、絶望から逃げられるような発想になってる。ほんとにブサイクだとわかっちゃったら大変だぜ。生きていけないぜ。それが気づいちゃうときがあるんだよね。いや、この話はまた気が向いたときにしよう。どんどん離れていってる、本題と。

何が言いたいか、っていうと、わしゃあ、そういう発想をある意味しょうがない、というか、全く正しいだろう、と思ってる。そして、冷静にそこから始めないと、解決もない、と思ってて、そこで止まってたら、やっぱり、進歩はねーよ、と。そういうことだよ、と思ったの。今の瞬間は。ブサイクに対して、ブサイクに返す、というのは、自分も、そのブサイクと同じだったらいつまでもブサイクだ、と。相手にブサイクされたと思ったら、自分が相手に対して、ブサイクをしていて、それが返ってきた、と思わねーといけねーよ、と。相手は自分の鏡なの。どっかでブサイクの連鎖を断ち切らねばなんねーよ、と。どこかで、ちょっとでも上を向かないと、いつまでも、同じ場所で、グルグル回ってるだけだ。そのうちバターになっちゃうよ、ってなもんでね。ほんとに相手がブサイクだとしても、ブサイクにブサイクを返してたら、やっぱり自分もブサイクだ。登っていく螺旋にしなきゃいけねーよ、と。そーいうことです。ちょっと前向きやね。

でも、やっぱり、こんなお人よしでいいのか、とも思う。やっぱりわしゃあダメ人間だ。

前はもっと思いやりを持って書いてたし、結局、20歳そこそこの時に書いたことと同じことを書いてたことを今思い出してガクゼーン、だ。

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