« アメリカと日本の関係 | トップページ | ノーモアブサイク »

2006年6月27日 (火)

クシヤ

パソコンが直った。良かった。相当の出費を覚悟していただけに、これは、嬉しかった。

土日は、やっぱり、相当、打ちひしがれてた、と思う。

今の今、思うのは、やっぱり、会社的には、ヒトヤマ超えたのがあるということだと思う。そうだとすると、やっぱり、そんなもんか、と思う。なんのヒトヤマか、というのは、あるし、そのヤマ、自体の善し悪しはまた、別。脳にそういうスペース、そういうことを考えるスペースが出てきた、ということ。出てきた、というのは正確じゃないな。会社的な事柄が少なくなって、それまで、相対的に小さかったものが大きくなった、という。たったそれだけだよね。この善し悪し、という言葉、最近連発している。その辺の心理も今度考えてみよう。

東京60ワッツの新しいアルバムは、実は非常に良かった。すごくさわやかな気分になっていた。結局、実も蓋もない、というか、真実はそこにしかないと思うけど、ナニゴトも本人のなかにしかない。養老さんが良く出すたとえで、このたとえは、出し時が間違ってるかもしれないけど、CDから出てくる音自体は、いつだって変わらない、それについて、アレコレ考えてるのは、俺自身だ、という。それについて、良い、と思って、さわやかな気分になったり、はたまた、場合によっては、わしゃあ、なんで、ヘタクソなんだ、とか、嫉妬心が芽生えて、全然良い音に聞こえない、って思ったり、は、全く俺自身の問題だ。あいかわらず、CDから出ている音自体は全く変わってないのだ。俺自身がどう思うか、は俺自身の中にしかない。これも善し悪しじゃない。マトリックスじゃないけど、脳に直接、五感が何かを感じられるように埋め込まれたら、それが本人にとっての真実になると思う。俺は、ほんとは、へんなぐっちょんぐっちょんした溶液で満たされたカプセルのなかで、脳に電極を刺されて夢を見ているだけかもしれない。

土日、打ちひしがれてた。中学の時、クシヤってヤツがいた。当時の言葉で言えば、ヤンキーだ。正確に言うと、小学校でも1年間いっしょだった。なんか、急に当時の、感情が甦ってきた。人間としての、格、というか、そういうものを感じてしまう時がある。この土日は、そういうことを考えてたんだと思う。気合の入り方、と、気合の入ってるところ、とね。今、クシヤがどこで何してるかはわかんない。サラリーマンでないのは間違いないと思う。あと、さっきの話と同じで、実は、その気合、というのは、本人が発しているんではなくて、周りが勝手にそう思ってる可能性だってある。そして、実は、本人はそのギャップに苦しんじゃってる、とか。過剰に期待されちゃってる、ってやつだと思うけど。まあ、それは、別の問題だ。というか、そういうやつ、応えられるヤツ、って、頼られて、結果的に、それに応えて、頼ったやつにある程度の満足感を与えられるやつだから、まだ、光ってると思うんだよね。どんどん、話がずれていった。

でも、実際、俺はそう思ってたし、クシヤは、わかる人にはわかる、評価されてる人間だったと思う。卑近な例でいえば、ポテンシャルがあるんだから、例えば、優等生のなんたら君がいて、いいなあ、と、ああいう才能があればなあ、というような、そういう人間ではなく、つまり、クシヤになりたい、とは思わないけど、ルール無用の場で、要するに、こういう世の中、みたいな場面で、こいつには勝てないな、という感じがあったと思う。実際どうだかわからないけど、そういう雰囲気、ってもんがあった。持ち上げすぎかもしれない。昔のことが必要以上に美化されてるかもしれない。

そういえば、クシヤのけんかの仕方は面白かった。常に初めは殴らせるんだよね。殴ってる方は初め調子に乗ってるんだけど、クシヤは全然応えてないよ、っていう姿勢を示し続けて、しまいには、殴ってるほうが怖くなってくるんだよね。こんなに殴ってるのに、なんでへーきなんだ、って。で、反撃に転じると、後はもう、クシヤが一方的に攻めちゃう、という。もう、クシヤが反撃に転じたときには、相手は気持ちで負けちゃってて、勝ちようがない状態になってる。

クシヤをなんで覚えてるか、っていうと、そう、小学生1年の時、俺が一方的に、3年生にいじめられる、ってなった時、クシヤはいっしょに来てくれた。今思い出した。クシヤ、とそういうことがあった、ってことを。ことの顛末はよく覚えてないけど、俺は、当時、ドヤ街みたいな、ごった煮みたいなとこに住んでて、もう、なんか、そこの悪いのに、反感を持たれちゃんだよね。そんで、その3年生が集団で攻めてくる、っていうんで、俺は、相当びびってた。小学生だけど。新潟はその点、カワイイもんだと思うんだけど、道具でボコボコにされた、とかなくて、結局、中庭に呼び出されて、小突き回された、って程度だと思うけど、その時に、クシヤは全然臆することなくいっしょに来てくれたんだよね。全然、クシヤはこの件絡んでなかったと思うけど、なんか、そういう理不尽に対して、許せん、ってことで、来てくれたんだったと思う、たぶん。結局、向こうは、大人数で来て、当たり前だけど、クシヤも全然敵わなかったけど、クシヤの方が怒ってたもんね、確か。あいつらなんだ、とか言って。

この土日は、結局、なんか、そういうことを考えてた。格、というか、懐、というか。金曜の夜に、起こった仕事の件と、翌土曜の朝の、会社行事の件。全然、違う案件だったし、直接的に事件のようなものがあったわけではない。あくまで、俺のなかで、気持ちだけバタバタしてた、ということ。ただ、こういうところで、いくら屁理屈こねても、自分が一番良くわかってるよ、ってことを再認識してたと思う。あるいは、屁理屈こねた、として、それが、俺自身が、気にしない、とか言いながら、一番、気になってる証拠だ。いや、わかってなかったのを気づかされたのかもしれない。だから、動揺し、打ちひしがれてるのかもしれない。俺にない、っていう言い方はへんな感じがするけど、懐。俺のなかではこの言葉が一番しっくりくる。俺は弱い犬なんじゃないかと思う。もう一段上の人間になるための資格、がないんではないか、と。そして、それが何かわかったとして、やる気ないじゃん、と。

わかってる人はわかってる、ということだと思う。俺は、今回、結果でわかった、ってことだと思う。相手の対応でわかった、と。結局、なす術がなかった、顧客の要求に対して。ほんとにささいなことだし、どこまで言っても、理屈でいえば、顧客のほうが理不尽を言ってるのは間違いないと思う。そして、土曜の朝の件は、とにかく、土曜は、自分自身、誰にも会いたくないし、そういう状況に置かれてるのが悪いんだ、と思った。とにかく不機嫌だった。土曜はたいがいそうだ。もう、身体が、イヤ、と言ってるのが、俺自身わかってるし、そんな状態で人に会ったら絶対に伝わる。隠すつもりもない。そんでまた、そういう自分に嫌悪感を抱く。あくまで、頭の中でそれがグルグル回って、他が考えられなくなる。そんな生産性のないことに脳のスペースを割くんだったら、別のものに、っていうのは、わかってるし、そうしようと思うんだけど、どうしても、逃れられない時がある。そういう諸々を超えることが俺はできてないし、なにか、ほんとのところで、する気がないんではないか、と思う。やっぱり、元カノと別れた時から、なにかおかしくなってるんじゃないか、とか、それがグルグル回ってる。だから、どこまで言っても、やっぱり、俺のなかの問題だ。そして、それがイヤだった。単にダラダラしてるだけだな、と。そして、それを超えようとも思ってない。誰がどうだ、とかない、あくまで俺の問題だ。

ずっと、この土日それを考えてた。

|

« アメリカと日本の関係 | トップページ | ノーモアブサイク »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。