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2006年10月 3日 (火)

懲りずにまた血液型の話かと、思ったら、まちゃみん的に「新境地」の話になっちゃった

うちの家系のオンナ、って思いつくところ、B型がやたら多いわけですよ。よく考えたら。両方のバアさんがB型だし、母親もB型だし、うちの母親は三姉妹の末っ子だけど、その上もB型だったと思う。そのB型のおばさんの娘、いわゆるいとこ、もB型だったと思う。俺の妹だけのような気がする、結構近いところで、B型じゃないのは。

いや、やっぱり、血液型は信憑性がない、っていうか、思い込みの世界だから、どうでもイイはずなんだけど、別のことを考えてたら、また、血液型のことを考えちゃってね。いや、もうどこまでいっても、やっぱり、何型はどうだ、とか、どーでもいいんだけど、どうしても、人間関係とか考えるときに、そうはいっても、血液型って、ひとつのファクターとして入れてしまうところがあるなあ、と思って。血液型から逃れられない。

っとね、結局、血液型を考えてる、っていうか、人間関係を考えてる、と。血液型はひとつの手がかりだ、と。とっかかりとして。こういう傾向があるんじゃないか、って出てきて、その傾向からの、材料をまずは拾ってみる。で、そうなんだけど、やっぱりなんか血液型、ってところに収斂しちゃう、と。まあ、でも、血液型以上に、容姿だとかの方を考えてると思う。それはあまりに明らかだから、言わないだけだと思う。目に見えない部分を考える、というのが、人間を考える、ということだから、血液型、って考えてしまうのかもしれない。

だって、容姿って、結局自分で見えないけれど、結局、みな「そう」振舞っているじゃないか。これは結局、自分オリエンテッドなのではない。自分の意思で服装を変えてるようだけど、実は、人から見られてる、ことがありき、で変えてる。ってことは、人の意思で服装を変えてる、ってことになりはしまいか、と、逆説的に。人からこう見られてる、ってことに対する、テーゼなわけだ、服装、って。容姿そのもがそんなに大きくいじれない、としたら。言いたいのは、自分オリエンテッドじゃない、ってことよ。自分の意思であって、自分の意思でない、というか。他人からの影響だと思う。だって、純粋には、自分では見えないものに影響されることができるないと思う。他人を通してはじめてみることができる。まあ、実際は見てるわけじゃないけど。他人が見ることによって、はじめて、自分も考えることができるものでしょう。依然として、存在しているはずだけど、他人がいなければ存在しないものでもあるわけだ、同時に。おかしいよね、存在してる、と、存在してない、が同時に成立しちゃってる。容姿に関しては、他人が見た印象を予想して実は返している、という関係だと思う。あるいは、自分が見た他人の印象を返そうとしている、という状態であって。いや、自分で言ってることが自分でもなんかよくわかってないけど。勢いで書いたらこんな感じ。
だからこそ、血液型は、もっと影響されるってことはなりはしまいか、一旦自分にインプットされたが最後。より直接的に、具体的に。と思う。だって、血液型って、実は、容姿なんかよりよっぽどあくまで、自分、というものにとってみれば具体的なものだもの。というか、純粋なもの、というか。だってA型だったら、どこまで言ってもA型なわけだ。それと比べて、容姿はどうか、っていうと、もちろん、服装も含めてだけど、やっぱり、それは、他人しか見れないものだ、完全には。鏡で見てる顔は鏡を見た瞬間に何割かマシになってると思う。良く、写真映りが悪い、とか言ってるけど、そんなことなくて、ブサイクはブサイクだと思う。自分で認めない、というか、そこはツゴーよく忘れ去ってる、というか。要するに血液型は、他人も自分も、何型か、ってことは純粋に共有してるけど、容姿、って実は、共有してない。極端なこと言えば、普通、自分の背中って見れないよ、びっくり人間じゃあるまいし。どんなにやわらかい背骨を持っていたとしても。だけど、血液型は、どこまで言っても、誰も彼もが、文句のつけようのない、A型だ、となったら、A型だ。いや、何が言いたいか、っていうと、概念としては、純粋なものが存在してるんじゃないか、と。具体的には、もちろん違うだろうけど。

だって、よく言うじゃん。欧米の人には、肩こりがない、と。それは、そもそも肩こり、という言葉、つまり、概念がないからだ、と。だから、肩こりを感じねえ、と。血液型も、結構、広まってると思うんだよね。そうだとすると、こういう逆の現象が起こっているんじゃないか、と。

つまりは、ほんとは「ない」もんだけど、やっぱり「ある」ことにしたから、実際に「ある」になっちゃった、というものが。ここで言ってるのは、「血液型」と「性格」が関連ある、っていうことね。その関連の「あり」や「なし」や、でね。無から有を作りだす、ってこういうことかもしれないよ。ということは、これって、永遠に循環するものじゃね? だって、そもそも「ない」んだったら、「ある」ってことにしようとする主体たる「ある」が、「ない」んだから、「ある」は生じようがないわけじゃん。でも「ある」わけでしょう、現実として。ね、これって、永遠に循環してるよね。

これはすごく平等だと思う。今回考えた中で出てきているのは、三者がいると思うんだけど、それらが全部平等だ、という。三者とは、つまり、「ある」と「ない」と、「『ある』ことにしようと思って、『ある』を生み出したけど、実はやっぱり『ない』んだけど、『ある』があるんだから、やっぱり、『ある』はずで、でも、そもそもは・・・というようなもの」だ。平等、という言葉がおかしいのであれば、相互に補完してる的、というか。だって、「ある」と「ない」だけって、普通そうかな、と思うけど、実はあり得ないと思う。「ある」と「ない」って全く2つは同じものであると思う。両者とも、考え方としては、正反対の、極端を言ってる、という点で。「ある」と「ない」だけだったら、それらをどう区別するのか。裏と表の関係ではない、となんか今の今は思っちゃった。言葉遊びのようだけど、だって「ある」と「ない」というのは、それが意味するところ、同時に存在できないでしょう。「ある」んだったら「ある」だけだし、「ない」んだったら「ない」だけ、じゃなくね? 「ある」も「ない」もどっちかを立てたらどっちかが立たたない、ってことにならなくね? だとすると、同じもの、ということは、1つということで、「ある」と「ない」に分かれようがないわけじゃん? 言いたいのは「ある」と「ない」は正反対のもの、分離してるものではなくて、同じものだ、と言いたいの。正反対だ、となった瞬間に、それは、正反対という形では存在できないような気がする。だけど、同じもの、と言った瞬間、じゃあ、それは、「ない」とも言えるし、「ある」とも言えるものになるんじゃないか、と思うわけよ。つまりは、「「ある」と「ない」」だけではものごとって成立しないんじゃないか、っていうことよ。いやいや、またまた自分で言ってることが自分でもなんかよくわかってないけど、勢いで書いたらこんな感じ。

ということで、これは、生命誕生のなぞに迫る大命題だ、ということがわかった。ここで言う「ある」はすなわち生命に置き換えられるッ! そして、「ない」は無機物、単なる物質だッ! そして、最後のものは、世の中では色々と言っているもので。丹波哲郎的には、大霊会、だね。今のこの瞬間のまちゃみん的には「意思」かもしれない。世のなかはやっぱりそういうふうにできているんだと思う。

「意思」ねえ。なんかイイ言葉かもしれない。

って考えると、まちゃみんは、これまで、全然まともに考えたことなかったけど、宗教って、置く場所がきっちりするよね。つまり、宗教、ってハナから存在意義がない、なんて言っちゃいけないもんだ、ってことが逆にわかる。少なくとも、「ない」はずが、「ある」ことにしたから、「ある」になってるけど、じゃあ、そもそも「ある」だったのか、というと「ない」で、でも現実には「ある」で・・・、っていう。これを「神」の仕業だ、って言いたい人はいるんだろうなあ。

こういうことって、言ってる人いるかなあ。きっと全然別の言葉でおんなじことを言ってる人、っていそうな感じがするけど、上のまちゃみんのように説明してくんなきゃまちゃみんはわかんないね。っていうか、それこそ、養老先生の本のとおりでバカの壁、っていうのかなあ、たとえば、一言一句同じ説明をしたとして、昨日の俺と今日の俺で、昨日の俺は、わからないかもしれないけど、今日の俺は、ほとんど瞬間的にわかってしまうかもしれないわけだ。きっとそういうものって本人の中にある。

なんか、すごーく大事なところが抜けてるような気がしてるけど、半分本気で、屁理屈こねちゃったぜ。

完全に、金曜のシアワセの躁状態の裏返りのバッドトリップ感丸出しだね。躁状態のあとで、精神がどっかいっちゃってるね。俺以外は最後まで読まんと思う。まちゃみん的にはこういうのが一番すきなんだけど。病院へ行って来い、って言われかねない、ほんとに、クスリをやってるかのような印象の文章だな。機会があったら金曜のことは、書くことにしよう。

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