街場の中国論 読んでます 感想です ~イキそーです
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街場の中国論 著者:内田 樹 |
いやあ、すげえ。松っちゃんの映画の101倍位は面白いぞ。とにかくすげえ。最後まで読んでないけど、なんちゅうか、もう充分満足。
今日も仕事、手も足も出なくて、メソメソしてたけど、なんか、がんばろう、という気持ちになってきた。なんだろね、進歩が実感できなくても、グリグリと、とりあえず続けるしかないよね、今は、たぶん。背伸びもちょっとはするにしても、ほんとの身長も伸ばす努力をし続けるしかないな。
今日は、仕事の帰りが新宿になってさ、新宿なんて来ないから、新宿しかできなことってなんだろ、と。そうだ、新星堂で、リッケン見ていこう、と。と思ったら、リッケンめちゃめちゃ少ないんだけど。なんで? 最近、どこの楽器屋行っても、リッケンって露骨にないよね。なんかあったのかな。
まあ、それはイイんだけど、その新星堂で、ジャミロクワイのスコアもないし、雨は降ってくるしで、どうしようかな、歩いてたところ、ジュンク堂が出来ていたので、入ってみた。そしたら思い出したんだよね、ウチダ先生の本のことを。
なんかねえ、ウチダ先生、養老先生との本と、この本を出した、ってのは知ってたんだけど、ずっと読む気が向かなかったのよね。ウチダ先生の方は、前回、教育の本が全然スイングできなかった、ってのもあったのかもしれないけど。
でも、この本は、すげえ。ほんとにイイもの、って読めばイイじゃん、観ればイイじゃん、にしかならないね。今読んでるとこまでは、何一つ切り落とすところがない。とりあえず今ぱっと思い出したのは小泉さんの深層心理の分析とか。元ネタは養老先生、とのことだけど。この前のボラットもそうだけど、当たり前、とか、当然、とか、わかってる、とか簡単に片付けたらダメだね。やっぱり謙虚な姿勢だなあ。結局、成長する、ということは、最近、しみじみわかった気になってるけど、既存の枠組みを越え続けていくことなのよね、きっと。なかなかわかんねえんだよ、何が枠組みか、ってこと自体が、まずは。わかった自分は、わからかなった自分はなんでわからなかったか、わかるけど、その時のわからなかった自分は、なんでわからないのか、もわからないんだからね。すごくわかりづらいけど、勢いで言うとそういうことだよね。だから謙虚にならなきゃいかんよね。わかんないかもしれない、って姿勢じゃなきゃダメだ。だって、その時点ではわからない、ってところに行くことが成長だから。たぶん、これは、ウチダ先生の受け売りだけど。まちゃみんわかんなかったんだよね、こういうことが。ある程度、範囲を決めないとやってられないのも事実だけど。やっぱり、生きてるかぎりはのたうちまわらなければいけない、と思う。それが、産み落とされちゃったものの宿命だなあ。また、我田引水でどんどん別の話になってくわけだけど。
そういえば、養老先生との本も買ってきた。それにしてもさあ、まちゃみんは、全然別のところから入った、こういう先生達が、繋がる、ってなんかカンゲキ。新日対全日、夢の交流戦みたいなもんだよね。今回のは、ウチダ先生と養老先生なわけだけど、あとは、橋本治とウチダ先生、ってのもアリかもしれない。確かウチダ先生は橋本治のことをスゲエ、ってどっかで言ってたと思う。あと、養老先生も橋本治のことをちょっと触れてたような気がする。まあ、イイや、今回、ウチダ先生が、養老先生とどんな佇まいなのか、ってひとつ興味のあるとこだなあ。もし、噛み合ってたら、橋本治とだったらどうだろう、と妄想が膨らんでしまうだろうなあ。
と言いながら、というか、というわけで、というか、そういうことで、実は、もちろん買ってはきたが、あんまり、養老先生とウチダ先生の本は期待してない。なんちゅうかね、実は噛み合わないんじゃないか、って気がしてる。どーなんだろ。読んで気が向いたら感想書くかもしれない。想像では、結局、養老先生がずっとしゃべってるんじゃないか、ってイメージ。っていうか、そういう組み合い方じゃないと面白くないんじゃないか、って思ってるんだけど。要するに、勝手な想像だけど、ウチダ先生はずっと話を聞く、って役割に徹した方が面白そうなんだけどね。勝手な印象で。養老先生を司馬遼太郎みたいな感じにした方がオモロイんじゃないかね。司馬遼太郎、って、対談、と言いながら、結局は一方的にしゃべってるだけだと思うんだけど。それがダメなんじゃなくて。ウチダ先生は、そういう役割に徹する、と。まちゃみんのいい加減な断定では、司馬遼太郎がおとなしく話を聞いてたのは、湯川先生だけ。あと、しゃべんない時は、基本的に、つまんないんだろうなあ、って時? でも、ちょっと、海音寺潮五郎と司馬遼太郎みたいな、噛み合い方してくれてることにも仄かな期待をしよう。

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