ラマダンが宗教的な意味があるのはなんとなくわかる
2004年9月の日記より
さて、あいからず、食事量を減らしている。 なんか犬の気持ちがわかるような気がする。仕事してても、食いもののことが頭に浮かんでくるんだよ。いろんなもんが浮かんできて、思いっきり食ったら、幸せだろうなあ、とかさ。おいしいもんの臭い、とか、風味が脳のなかにビデオのように再生されるんだよね。 そして、なんか、宗教的な気持ちになった。
なんか、土に還っていくような気持ちになった。このだんだん食い物がなくなったら、生命の活動が弱まっていくのかなあ、なんてね。生命の活動がだんだん薄くなって、しまいには、止まるのかな、なんてね。オレそのものが、自然のモノ、に還るんだろうなあ、っていう。そしたら、なんかそれは、怖いことではないのかなあ、なんてね。 精神活動がなくなることが怖い、んだけど、少なくとも今までは、それも、怖くないような気がした。結局、世の中っていうのは、繰り返してる。繰り返す世の中で、オレの精神の活動である、必要があるだろうか、ということだ。というか、オレが土に還っても世の中が動いていく、っていうことは、楽しい、ことなんではないか、という。頼もしいともいうかもしれない。なんかそう考えたら怖くないような気がしたんだよね。
週刊文春に里見浩太郎の対談が乗っててね、母親の死に目に駆けつけて間に合った、その時だけ意識が戻った、っていう話があって、死ぬときにこれだったら、オレも死んでいけそうだな、って。順番を守って、そして、死ぬこと自体もソフトランディングというかね。眠るように死んで行く、というかね。自然に消えていく、というか。それだったら、怖くない、というか、受け入れられる、というか。 で、この気持ちは、別に、宗教っていうところから発想したわけではなくて、後から考えたら、こういうのこそ、いわゆる宗教、っていうもんじゃないか、っていうね。何か、っていうと自然とそういう気持ちになった、ということ。一方で、ラマダン、ってあれは、だから、宗教儀式なのかな、って。 土に還るんだ、って考えたら、死ぬことは怖いことではないような気がした、ってわけだ。たぶん。 ちょっと信じられないんだけどね、自分でも。死ぬことがほんとに怖くないのか、って。 でも、そういう考えの回路を一回でも、脳に作れた、ってことで今回のメシの量減らした甲斐があったなあ、って。 なんか脂肪が溶けだして流れてる、って感じがするの。そんで、なんか、その溶けだした脂肪には、多幸感を感じさせる物質でも入ってんじゃないか、って感じなの。
あと、話は変わって、いちおう記録として、残しておくけど、今日、朝計ったら79キロだった。ここ半年位かなあ、いや、そんなにいってなくて、ここ2~3カ月位だと思うけど、それくらいは、びっくりするくらい増えていて、82~4キロ位だったから、まあ、痩せたは痩せた。でも、1年くらい前は、77~79キロ位だったと思うんだよね。だからまだまだだよね。
高校の時、たぶん、64キロ前後だったと思う。ラグビーやってたんだけど、嘘ついてたんだもん。軽いとナメられるから。68キロ、とかいって。そんで、浪人の時に、67キロ前後。大学卒業で70キロ位だったと思うんだよね。で、会社に入って1~2年で74~75位になって、3年目くらいで、75キロ位、とかそんな感じじゃないかね。 意識としては、高校の時位戻したい、位だからね。60キロ台には行きたい。 でも、いまから考えると信じられんな。79キロになっただけで、ほんとに、ほんとだけど、すげえ身体が軽く感じるわけだよ。60キロ台なんて、まさに羽のようだろうね。 あと、一昨日の文章は、ちょっと大川の文章の影響を受けている、と自分で思いながら書いていた。影響を受けている、というか、脳にありながら、書いてるなあ、って感じがした。 なんか、こういう感覚とか、体重だとか、現実感を残しておきたい、と思ってんのよね、最近。

最近のコメント